星野源くん「19歳から22歳まで」まとめ



◆2000年10月(源くん19歳)


◆源くんの母校でもある「自由の森学園高等学校」出身のメンバーを中野の【クラシック】という今はもうないクラシック喫茶に集め、『SAKEROCK』を結成。


ハマケンこと浜野謙太さんにも声をかけたが「ヴォーカリストになりたいからイヤだ」との理由で参加を断られている(後にハマケンさんも参加)。


バンド名の由来は、マーティン・デニーの同名曲から。わずか2分間の曲。


バンドは『SAKEROCK』だが、源くん自身は下戸で、お酒は全く飲めない。


◆2001年(源くん、20歳)


SAKEROCKの自主製作5曲入りCD「sakerock」が完成(販売はされず、名刺代わりに配っていたとのこと)。自身が集めたメンバーで自身がプロデュースするバンドの初録音物。


当時は阿佐ヶ谷の風呂なし六畳一間のアパートに住んでいた源くん。スタジオを借りるお金などもモチロンなく、国立にある飲み屋さん(かけこみ亭)の地下室を(ものすごく安い値段で)借りてレコーディングされた一枚。



イデビアンクルーの「不一致」という公演をたまたま見て衝撃を受ける。あまりにも衝撃的で計3回も観に行ったとのこと。


大音量のマンボをBGMに喪服のクルーらが踊りまくるという内容だったらしい。


喪服でのダンスといえば…




その後、源くんはイデビアンクルーのワークショップに参加したり、井出茂太氏から個人レッスンを受けたりしている。


2008年にSAKEROCK「会社員と今の私」、2012年の「夢の外へ」MVに井出氏を、同じく2013年「化物」MVにはイデビアンクルーを起用するなど交友は続いている。


SAKEROCKとは異なるメンバーのレゲエバンド(女性ボーカル)に呼ばれベース担当になりそうになるが、バンドが自然消滅し実現しなかった。


◆2003年(源くん22歳)


舞台、シアターコクーン オンレパートリー2003「ニンゲン御破産」(作・演出=松尾スズキ)に参加をキッカケに大人計画事務所所属となる{以後、役者としての仕事のマネジメントは大人計画である模様}。


この作品が初めての大きな舞台だったそうで、張り切り過ぎた源くんは足の骨にヒビが入った。


カーテンコールの際に中村勘三郎さん(故人・18代目)の手を引いて登場することになる。


「お休みの日とかは何をされているんですか?」という源くんの質問に、勘三郎さんは…


『舞台じゃこんなに拍手をもらうけど、家に帰れば一人で風呂に入って頭を洗ってホントに孤独なんだよ』という旨の回答。


それに何故か親近感を覚えた源くんは、その思いを後に発表する3rdアルバム「Stranger」の1曲目に『化物』という曲に込めたとのこと。


フジテレビ系のドラマ「WATER BOYS」に星山役として出演。シンクロナイズドスイミングをやる男子高校生の一人。初めてのドラマ出演。


最終話で実際にシンクロ演技を披露することもあり合宿形式の相当ハードな練習が行われた。


運動神経も体力もない源くんはなぜかオーディションに受かってしまい(運動能力より「高校生にも見える容姿と体型」がオーディションの基準だったのかなと思われます)、約30人いるシンクロメンバーの中で「一番できない男」として足を引っ張りまくる。


合宿2日目に「やめたいです」と事務所の長坂社長に泣きながら電話するも

「もう出演は決まっているし、今やめるなら事務所もやめなきゃいけなくなるよ?それでもいいの?」

と諭され何とか踏みとどまる。


SAKEROCK「YUTA」(自主製作盤)が完成し、初めて値段を付けた「売り物」として世に出される。前作同様、飲み屋の地下でレコーディングされた。


源くん曰く「自分が楽しんでいたら、客が喜ぶ音楽はできない」というスローガンを頑なに守っていたとのこと。この辺の考え方やストイックさが心身の負担となり後の発病に繋がっていくのかなぁと思います…。源くんはプロデュースという役割に重点を置きながら制作したそう。


完成後、色んな町のレコード屋さん(下北沢のノアルイズ・レコードなど)に1人で営業をかけ、お店に置いてもらえるようにお願いして回った結果、地道に売れ続けて累計1万2千枚を超えるセールスを記録。


源くんは初めて「報われた!」と思ったとのこと。


今は廃盤となっており、オークション等において高値で取引されている(源くん本人は過去の音源や初回盤のプレミア化とかを快く思っていない)


また、この年には「日本の態度」というオムニバスアルバムに2曲を提供している。